本多勝一『職業としてのジャーナリスト』

本多勝一著『職業としてのジャーナリスト』朝日新聞社/朝日文庫/1984年3月/ISBN:4022608137
読んだのは1990年12月20日第7刷。
収録されている論考/エッセイの初出は以下の通り*1

「『極限の民族』を取材して」〔『朝日人』*21965年12月号〕
南ベトナムを取材して――『戦場の村』(戦争と民衆)の舞台裏――」〔『朝日人』1968年1月号〕
「危険な職業――ジャーナリスト」〔『あしなみ』〔日本経済新聞労働組合〕1968年9月14日号〕
「職業としての新聞記者」〔『別冊経済評論』1971年春季号〕
「海外取材の旅――朝日ゼミナール「海外旅行と私」シリーズでの講演」〔『朝日ゼミナール』第47号。講演は1971年4月9日、東京・朝日講堂にて〕
「原稿料の「並」と「特」」〔『ザ・カード』*31971年5・6月号〕
「さらばペテン師ヤコペッティ監督」〔『エイムズ』1972年7月号〕
「「両者の言い分」について再び」〔『講座・現代ジャーナリズム 第一巻 新聞』(時事通信社)月報〔1973年1月〕〕
「『ニューヨーク=タイムズ』考」〔『潮』1973年11月号〕
「用心棒文化人たちへの感謝の意」〔『潮』1974年新年号〕
「山本ベンダサン氏の「生きがい」」〔『潮』1975年3月号〕
天皇報道のジャーナリストたちへ」〔『潮』1976年2月号〕
「「田中角栄研究」と「日本共産党の研究」の研究」〔『全国商工新聞』1976年3月1日〕
「出版社と原稿料と著者との関係」〔『潮』1977年3月号〕
「やさしく・わかりやすく・論理的な文章を」〔『潮』1978年5月号〕
「地域新聞と地域体制の関係」〔『世界』1978年3月号〕
「ジャーナリストになりたい高校生U子さんへ」〔『考える高校生』1979年6月号〕
「「現場の道具」としての日本語」〔『言語』1980年6月号〕
「私の取材方法と認識論」〔合同出版『社会科学研究年報5』1981年版、1981年6月の「社会科学研究セミナー」講義〕
「「皆さまのNHK」か「NHKNHK」か」〔『潮』1983年1月号〕
NHK受信料をなぜ拒否するか」〔『太陽』1983年2月号〕
「大ウソ宣伝による世論操作が始まった」〔『潮』1983年3月号〕
「「作家」になりたがる小説家たち」〔『エイムズ』1971年5月号〕
「『黒い雨』と『マルコムX自伝』と小説の敗北」〔『季刊すずさわ』1977年春季号(終刊号)〕
「茶番劇としての「大宅壮一賞」」〔『潮』1974年7月号〕
藤島泰輔氏に感謝する」〔『現代の眼』1974年10月号〕
「小説家はなぜ堕落するのか」〔東北大学『50T12新聞』第3号(1975年11月1日)〕
石原慎太郎という小説家の体質」〔『潮』1975年4月号〕
川端康成小林秀雄」〔『季刊すずさわ』1976年8月夏季号〕
本多勝一×アレックス・ヘイリー「『ルーツ』はかく書かれた――アレックス=ヘイリー氏との対談――」〔社会思想社編『ルーツと私』〕
タスマニア人と野坂昭如氏」〔『潮』1981年8月号〕
森村誠一悪魔の飽食』を推す」〔光文社カッパ・ノベルス版カバー推薦文(1981年10月)〕
菊池寛賞を拒否する」〔『潮』1982年1月号〕
「『自動車絶望工場』と鎌田慧氏」〔講談社文庫『自動車絶望工場』解説(1983年7月)〕
「一部「文化人」たちの両義性と免罪符現象」〔『潮』1982年5月号〕
「文春系「反核文学者」たちに教えを乞う」〔『潮』1982年11月号〕
小林秀雄〝巨人〟報道を嗤う」〔『潮』1983年7月号〕
菊池寛賞を改めて拒否しなおす」〔『潮』1983年11月号〕
「あとがき」
筑紫哲也「解説」

書かれた時期は1965年から1983年までだけど、こういうエッセイでは初期からっかなり隙がある人なんだなという印象。「用心棒文化人たちへの感謝の意」の中で伏字で名前の取り上げられない新左翼の彼ってのは津村喬のことか。

*1:それぞれの文の末尾による

*2:朝日新聞社内報

*3:ダイヤモンド・クレジット・カードPR誌